28日  「ざまぁみろ!」

本日は16時30分から始めます。
一度体験に来られた方とはその際にLINEを交換して、
以降ビジターなり、入会の際はその時にグループに招待し、
以降、会員同様にそこで練習動画を共有し、練習時間の
予約を行っています。

明日から来月の試合が終わるまでは体験をお休みさせて
いただきます。
ご容赦ください。

下記「ざまぁみろ!」は、先日のnoteの記述です。

自伝を出版する前20代半ば過ぎ頃から「ざまぁみろ!」と前と後ろにプリント
したTシャツを毎日のように着てきました。

笑われたことも馬鹿にされたことも、不快な言葉を受けた
ことも数え切れない程あります。
でも、知らないのは知らない側の勝手です。
馬鹿にするのも自由な様に、着続けるのも自由です。

知らないで取材に来られた方は、訝しげな顔を僕にぶつけました。
いいのです。
理解を求めて着ていません。
毎日の僕の心の支えというか、この言葉があると一歩前に
踏み出せるから袖を通して、そして、今もそれを勇気の切っ掛けにしています。

戻りたくない過去に唾吐いて、今、一歩前に出よう。
悔しい今に唾吐き捨てて、次、もう一歩前に出よう。
そんな小さな意気込みです。

僕のことなどご存知でない方に向けても記しています。
記憶が重複した場合、その苛立ちを鞘に収めていただけたら幸いです。

4月16日に次戦が決まりました。
もうすぐ100回目の減量に入ります。
大したことではありません。
過去にも100戦した選手なんて沢山います。
でも、10代20代、30代40代、そして50代と続けて
リングに上った選手は、「昭和・平成・令和」同様、僕が初めてだと思います。

もう1戦先は日本でデビューしたフェザー級で100戦になります。
階級を上げないで100戦した思い浮かぶ選手はいません。
でも、大したことではありません。
全てそんな記録はないからです。
勿論、相手の都合で上の体重で契約になった試合もあります。
またどこぞの掲示板で揶揄する人もいるのでしょうが、
色色と、どうだっていいのです。
前述同様、何の記録でもありません。
自己満足、そういってしまえばそうでしょう。
人は誰もがそうなので、ドローとは思いますが。



でも、やる以上は誰とも比べられない自分だけの自分を求めています。
いいのです。
「馬鹿だな。」
そうやって笑ってもらえたら。
気持ちを素通りされるより、全然ましです。

だから、次も自分らしく。
この気持ち、最後まで。

「ざまぁみろ」

ジムのブログにもおそらく公開するので、まずこちらを
先に。
僕のことなどご存知でない方にも向けて記しています。
なので、過去の記述の記憶と重複させてしまった方、
初めて記すこともあるのでご容赦ください。


今更、僕自身の説明のことなど最初から書き綴る必要もなく、
ご存知でない方は各自で調べてくれればいいという程度の存在です。
なので、自分から知ってもらおうと思うことはありませんが、
でも、最近過去を振り返ることが幾度かあった為、なので
そんなことが切っ掛けで記すことにしました。

著書のタイトル「ざまぁみろ!」、自伝を出版することになった時から
そうでした。
後述にありますが、理由を知らない人は乱暴な語彙に受け取りました。
今もそうです。
疑われるのは仕方ありませんが、決めつけるのもどうかと思います。
「どうせ、」
に続く、想像のそれとは違うからです。
自伝の話になり、タイトルを口にすると、どなたも怪訝そうな表情を返します。
勿論、Tシャツも作って着ています。
もう20年以上前からずっと。
最初は地元だろうと都内だろうと不快な言葉を吐きつける輩が
いましたが、大分前からそういうような輩には遭遇しなくなりました。
流行るとか想定したことなどありませんが、世の中の8割が
便乗です。
そして、それが悪ふざけの度を過ぎたそれだった時には目も当てられないので、
流行って欲しいとも思いません。
理解した人がそのTシャツを気に入って着てくれればそれで満足です。

悔しい思いをしてきたプロ野球チームのファンやサッカーのチームのサポーター
らが、低迷期を脱却した暁にそれを誇らしげに着てもらえたら幸いです。
それ以上のことは望みません。

著書も同様です。
幾度も記しますが、世の中は8対2です。
W杯の何某かの大事が起こると、スクランブル交差点に集まって
騒ぎを起こす8割はサッカーなどに興味がある振りをしているだけで
ただ盛り上がりに参加したいだけの人間です。
きっと、そういう輩はスクランブル交差点で騒ぎになる何某かの
参加賞が欲しいだけなのです。
また、数年前の様に名古屋の2・3人が必死こいて名前と素性隠して
然も大勢かのように見せかけて、僕個人に数千もの罵詈雑言を浴び
せることがありましたが、そういうのはもう、うんざりです。

世の中のよいことも悪いことも8対2です。
便乗8割、如何にしてそれを生み出すかを考えてきました。
嘘ではありません。
キックボクシングをやっている自分が注目されるようにするために
中学を卒業してから自らの人生を弄ってきました。
たかがキックボクシング界で生き残るためのことなので、
そう大したことではないのかもしれません。
偉そうなことをしたというつもりもありません。
ただ、それをしようともしなかった癖に、時間が経ってから僻んで
陰口を叩く無難な人生歩んできた同業者よりはましと思います。
そんなのが沢山いました。
ネットなどなかった時代、世間の注目を浴びるには一般紙に
出ること、そう思いました。
専門誌ですら当時のキックボクサーは扱ってもらえませんでした。
その為に中学生時代から考えて、卒業後にタイへ渡り、周りとは違う
食いついてもらいやすい人生を歩んできました。

2年遅れて高校生になり、留年して3年遅れになっても退学しなかったのは
その方がきっと面白がってもらえるからです。
19歳になってタイトルを獲って少しして、一般誌の取材が増えはじめました。
専門誌も一般誌も最初は僕と思います。

以前にも記しましたが、Jリーグが誕生する少し前です。
サッカー人気の作り方に興味があったので、一般誌のインタビューを
受ける際、よくスポーツライターにその話を振ったのです。
そして、訊いたのです。
一般誌のインタビューだけではありませんが、特に力が入りました。
勿論、質疑をイメージして、こう訊かれたらこう返そう。
こう返されたらこういうことを云おうなどの想像はいつも繰り返して
いました。
そして、こちらが訊きたいことも幾つも考えました。
8対2の持論についてもよく、その際に話しました。
納得してくれるライターもいましたし、面倒臭そうな顔をした
ライターもいました。
面倒臭いと感じたライターが正解です。
幼少期から変でした。

キックボクシングを始めた中学生の頃には既に自伝を出版する
つもりでいました。
馬鹿でしょう?
馬鹿なのです。
のちに自伝を出版出来る選手になろうと決めました。
ええ、馬鹿だから仕方ありません。

「ここ(自宅)から富士山を登りたい。」
小学生の頃、団地5階の自室から見て思いました。
馬鹿でしょう?
だから登りました。
取りこぼしのない様、全てのルートを自宅から走りました。
往復は豪雨のため8合5尺途中で下山し、失敗しました。
昨年からジム生らと話をしていて、今年の夏にみんなと5号目で
落ち合って登るつもりです。
なので、今年の夏にもう一度やり直せたらなと思います。
今年の銚子走は、1ヶ月繰り上げて7月のどこかでやろうと思います。
高根さん、待っててください。


馬鹿だから失敗を苦にしなかったのです。
中学卒業してタイへ渡ったのも、主人公が冒険した方が面白いと
思ったのです。
この人生、僕が主人公なのです。
みんながとにかく高校進学を目指すなら、逆に行かないで
違うことをやった方が面白いと思ったのです。

中学卒業してタイへ行くというのを聞いたことがないですし、
いつか、それが誰も持っていない武器(過去)になると思ったのです。
強くなることが出来たら絶対にその方が世の中の人は面白がって
くれると思ったのです。
キックボクシングは忘れられた過去の競技でした。
ネットのない時代、テレビも新聞も専門誌すらありません。
だったから、その為にまず、どうしたら自分の名前が世に出るかを
考えました。
普通の考えです。
人と違う過去を作ること、です。
学歴も同様です。
勿論、わざと失敗したわけではありません。
ただ、失敗するたびに面白い方を選択したがる側ではありました。
僕はそんな子供だったから、親は大変だったと思います。

「ざまぁみろ!」に記した通り、タイでお金がなくて線路の
上を歩いてジムに戻った時も、幾度の挫折の時もこれを
乗り越える主人公を演じてきました。
する考えると、我慢が苦ではなくなるのです。

幾度も挫折して、でも、そこで挫けないでこれたのは
そんな考えがあったからです。

学校関係云云での悔しいことも、ジムでのこともタイでのことも。
勿論、キックボクシングでのその他のことも。
息子が産まれる頃でしょうか。

自伝を出版する話が届きました。

自伝と伝記の区別もつかない中学生の頃同様、実に
稚拙な文章と表現力で、それを感情と記憶の拳で書き殴りました。

その数年前、映画「パルプ・フィクション」を観ました。
その前年に観た「レザボア・ドッグス」で既に度肝を抜かれていましたが、
両方共、衝撃的な作品でした。
以降、年に数回は必ず観ています。
前作「レザボア・ドッグス」では、
「デビュー作で随分と高いハードルを自らに立ててしまったな。」
などと素人の癖に分かったふりして心配したほどです。

冒頭に記しましたが、中学生の頃に自伝を出したいと思いました。
「パルプ・フィクション」のような自伝を出したいという思いを
その頃に頭の中で描きました。

自伝を出版することになって、まず編集者と会い、話しました。
タイトルの話になって、
「まずは書いてから考えましょ。」
その通りです。

分厚い辞書と原稿用紙を常にリュックに入れて街中を徘徊して
いました。
ふと立ち寄った喫茶店、コーヒーショップ、ファストフードや
ファミレス等等の場所で、コーヒー飲みながら書いていました。
電車内では何某か思うことあればメモ帳に書き殴るか、
携帯の空メールを作り保存して、移した場所か帰宅後に原稿用紙に
書き移しました。
数年かけて原稿用紙700枚書きました。


そして、担当者らとタイトルの話になります。
候補として挙げられるのは、前向きで健気に頑張る姿勢を
全面に出したそればかりです。
「『ざまぁみろ!』にしたいんですけど。」
「駄目駄目、そんな言葉は。」
一笑に付されましたが、でも、こちらも変える気は毛頭ありません。

それで、何度も食い下がり、もう一言添えるならという
ことになりました。
サブタイトルというか後付の文言です。
「それでも僕は負けなかった」
「〜諦めなかった。」
僕が絶対に使わないであろう文言が幾つか候補であがりました。

それらが恥ずかしいので全部却下して、自分で考えたそれを
提案しました。
「僕はまだ生きている」
現役にしがみつくということにかけて、「それでどうか?」と投げて、
それに決まりました。
タイトルもサブタイトルも、何なら内容そのものも編集のいう通りに
していたら売れていたのかもしれません。
もしかしたら。
でも、自分の手段で理解されたいのです。
売れる売れないではありません。
自分の文章で売れたいのです。
違うなら売れなくて構いません。
売れてもいないので偉そうなことは云えませんが。

以前記しましたが文章は下手糞なので、いくつか拘ったことはあります。
受け身体言止めは使わない。
受け身は以前記した通り、告げ口ぽくなるからです。
体言止めは、自分が書いたものではないような第三者の物書きが
ゴーストライターとして代筆したかのような印象を与えるからです。
でも、何年もかけて綴った360ページ分の文章は締切の
数週間前に姿を変えて目の前に現れました。
受け身と体言止めだらけという傷だらけの原稿になって戻ってきたのです。
なので、最後の2週間は本当に寝る間も惜しんでの修正作業でした。
全部強引に直しました。

冒頭に手書きの手紙を添えることも提案し、それは社で会議してもらい、
実現に至ります。

粗探しばかりするような人にはそういうことは気付けないようでした。
暴露本だの実に陳腐な感想がネット掲示板に並びました。
便所の落書きが流行ればみな、便所の壁に落書きに没頭し、ネットで
同様の手段が出来ればそこに8割は便乗する。
誰かが亡くなれば素知らぬ顔して同情する側に着替える。
世の中はそんな8対2で回っています。
パレートの法則が、どうでもいいそんなことには当てはまらないので
あれば、それをアーシーの法則とでもいいましょう。
中学生の頃から様様なことに当てはめてきたのです。


表紙裏に直筆の手紙を添える。
表紙は中原裕さんのイラスト。
裏表紙カバーに自分の描いた絵を小さく添えて欲しい。
自分の描いた絵で栞を添えたい。
あとがき後のSpecialThanksは文章にしたい。


その5点が僕の希望でした。
SpecialThanksで、ただ名前を並べても、それは著者の
自慰や知人への媚だと思われても嫌なので、文章にしてしまえばその方への想いも
当人に告げることが出来て、それを読む第三者にも媚びているように
思われずに知ってもらえるかなと思ったのです。
「面白いですね。」
そう云ってくれたのは他の出版関係の方や物書きの方だけでしたが。

あとは、パルプ・フィクション同様、今に始まって今に戻る。
中学生の頃に抱いた気持ち「ざまぁみろ!」を第三者に向けて放ち、
物語は始まり、最後に過去の自分自身へ投げつける形で戻ってきます。

「ざまぁみろ!」がそんなに広まらなかったのは僕自身の表現不足と
存在力不足でしょう。
悔しいですが、種は巻き続けなければ花は咲きません。
その種の芽が出ないかもしれないですし、もしかしたら時間が大分経って
から咲くことだってあるかもしれません。
だから種は巻き続けなければならないし、努力の水はあげ続けなければ
なりません。

中学生の頃に抱いたまた別の目標、100戦も同様です。
キックボクサーなんて忘れられていく存在なのです。
ファイトマネーのチケット、売れなくて幾度もゴミ箱に捨てました。
いいのです。
今もファイトマネー分くらいは売りますが、それ以上頑張って
売ろうとは思いません。
お金を貰える、試合をして求められる存在になればいいからです。
頑張ったところで報われる競技ではありません。
ただ、それでも頑張らないと報われることはありません。

20年以上前の自分の著書に、そこまでの自分自身に支えられて
います。
キックボクシングを始めて40年近く経ちます。
デビューして35年が経ちました。
キックボクシングそのものも、大分変わりました。
それでも変わらないで居続けることのみを優先してきました。
過去に応援されたことを、今も応援してくれていることを後悔させて
はいけません。

以前記しましたが、デビューした頃、名前を残すことばかり考えている
僕に父は云いました。
「『この選手を応援してよかった。』いつか、お客さんにそう思って
もらえる選手を目指しなさい。」
幾つも作った目標の中の大事な芯ともいえる父の一言を一番大事にして
きました。
その気持を忘れずに、最後まで頑張りたいと思います。

でも、僕自信が目指すのは満足ではなく納得です。
周囲に喜んでもらおうなんて図図しい今の立ち位置です。
なので、納得できる頑張り方を、そう思います。
これまでとあまり変わりませんがね。
否、殆ど変わっていませんがね。